●『かえで(高尾パークボランティア会報)』掲載小論集
イラスト:ぞえじい
私の所属する「高尾パークボランティア会」では毎月『かえで』という会報を発行しています。'07年6月現在でなんと191号! 約16年に渡って発行され続けているという実績を誇ります。ちなみに191号の表紙には上のイラストを載せさせていただきました。
私がここに初めて投稿したのは'05年の2月号からです。会員の大先輩である落合一平さんが、'89年1月から'00年5月の長きにわたり『高尾山話』という短いけれど味わいのある文章を投稿していらっしゃいました。これは'05年7月に「聞き取り話」などを加え『かえで別冊』としてまとめました。
私はこの『高尾山話』が大好きですので、図々しいとは思いましたが、気持ちの中では『続・高尾山話』といったつもりで時々投稿させてもらっています。●江川杉の謎1,2 〜高尾山に杉を植えた伊豆の代官とはどんな人物か〜
No.195,197('07年10,12月号)「むささび伝説1,2」
ご存知、高尾VC発行の情報誌名は「のぶすま」です。岡崎弘幸先生の『ムササビに会いたい!』によりますと、ムササビの古名や地域名は「野衾=のぶすま」「毛美、毛朱=もみ」「ばんどり=晩鳥」「もま=森魔か?」「むま」など他にも様々あるようです。また、享保年間(1716〜35)年頃に刊行された『近世世事談』には「ももんぐ」というよび名が一般的とあります。昔はリス科のムササビとモモンガとの区別はなかったのでしょう。
大正時代には「もま」を、捕獲を禁じられていたムササビとは知らずに捕らえて罰せられたという高知地裁の判例があるほどですから、地域によってはムササビというよび名は一般的ではなかったのかも知れません。ちなみに似た名前で、江戸時代に書かれた『耳嚢』には「マミ」という妖怪が出てきますが、こちらはムジナのような普通の動物系らしく、空は飛ばないようです。
天保12(1841)年、竹原春泉によって描かれた『絵本百物語(桃山人夜話)』によれば奥州でいう「のぶすま」とは年功を積んだコウモリが化けたもので、これがさらに年功を積むと「山地々、山地乳(やまちち)」または「さとりかい」とよばれる妖怪となるそうです。人の寝息をうかがい、その息を吸うが、これを第三者が目撃していれば吸われた人は長寿を保ち、目撃者がいなければ翌日その人の胸を叩くと必ず即死するといわれていましたが、この「山地々」のために長生きした人も、死んだ人も実際にはいなかったということです。
絵を見る限りでは魔物にキスをされているようでちょっと不気味な感触です(右絵)。
東北地方を中心に多くの伝説を残し、マタギの祖といわれる磐二・盤三郎兄弟の妖怪退治談にも巨大なムササビの化物が出てきます。空を駆けめぐり鳴き声を発するというその化物は、沢の奥の洞窟にに住んでいて、その中には人や獣の骨が散らばっていたということです。結局、兄弟に矢で射抜かれて退治されたムササビは、頭や身体が猫のようで巨大な翼を持っていたようです。
また、正徳2(1712)年〜天明8(1788)年、鳥山石燕によって描かれた『画図百鬼夜行』によると、野衾はムササビのことで、蝙蝠に似て毛を生やし肉翼を持ち足は短く爪は長く、木の実や火焔を喰らう、とあります。昔は動物学上の実態が解明されていませんでしたし、ムササビは夜行性ですから、提灯や炬松(たいまつ)の心細い明かりを頼りに暗闇を行く昔の人にとっては恐ろしい獣と思われていたようです。
ムササビが火焔を喰らうという俗信はすでに平安時代頃からあったらしく、承平年間(931〜938)に作られた辞書である『和名類聚抄』には「炬松(たいまつ)などの火や煙を喰い、鳴き声は小児が叫ぶようだ」と書いてあります。
笹間良彦氏の『図説 日本未確認生物事典』によると、「森などを人が炬松を持って歩いていると、その縄張りを荒らされたくないという意識から物凄い早さで炬松を持っているところを飛翔して火を消してしまう。それでくすぶっている煙を食うと誤解されたのである。」と分析しています。
ちなみに同書の「ももんがあ」の項に掲載されている挿し絵には『画図百鬼夜行』の中の「元興寺(がごぜ)」という妖怪の絵が使われています(左絵)。古寺の屋根から半身を突きだし今にも人間に飛び掛からんという状況は薬王院大本坊の屋根裏に住みついているムササビを連想させますが、あの愛らしい姿をした彼等にとっては、さぞ心外なことでしょう。(つづく)
ムササビは「ももんがあ=ももんぐわあ」という妖怪とも考えられていました。モモンガとムササビは同一視されていたようですし、妖怪名が先か動物名が先かは判りませんが、今ではお気の毒にモモンガの方が妖怪名を引き継いでいるわけです。「ももんぐわあ」の「もも」は「もみ」の転語、「ぐわあ」は鳴き声をあらわしたものということです。大正時代頃までは羽織の背を顔が隠れるまでズリ上げたり着物をかぶって肘を張り、「ももんぐわあ!」と叫んで幼い子供を脅したり戯れたりしていたようです。「柳からももんぐわあと出る子かな」という一茶の句が残っています。
平田篤胤の『仙境異聞』は江戸時代の後期、文政3(1820)年10月に山人(天狗)界から7年間に及ぶ霊界体験談を持ち帰ってきたという寅吉少年の話や問答などをまとめたものですが、篤胤の「山で過ごしていた時に、何か恐ろしい物を見た事は無いか?」という問いに答えて、寅吉少年はいくつかの体験談を語っています。
その一部を現代語に要約しますと、
「師(山人)の使いで月夜の晩、山道を通っていると前方から風呂敷ほどの物がひらひらと飛んできた。4〜5メートルほど近づいたと見ると素速く顔に被さってきたので、あわてて顔に両手を当てた。鼬(いたち)ほどの大きさで鰭(ひれ)を持ち、節々に爪のあるものだが、それが顔を覆ってしがみ付いてきて硬く締め付け、息を止めようとしてきた。幸い顔に当てていた手を浮かして引き離し、打ち付けて難なく殺したが、その時無理に引き剥がしたので彼の爪で頭から顔のあたりまで引っかかれた。あれは何という物だろう非常に憎い奴だ」という。霊界や妖怪の存在を信じて疑わぬ篤胤は「それはノブスマだ」と即答し、その絵を寅吉少年に見せたところ、少年は「これに間違いない」と答えています。
その絵がどのようなものだったのか判りませんが、時代的には前出、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』だった可能性もあります(左絵)。
しかし柳田圀男は『妖怪談義』の中でノブスマを「山の妖怪」ではなく「里の妖怪」に分類していますからノブスマは案外、深山より人里に近いところに出没していたということになります。もちろん人がいなければ妖怪も出番がないということでしょう。現在は我が高尾山でも天狗に並ぶアイドルとなって観察会まで組まれるほどの人気者が、つい最近まで化物視されていたのですね。今ではムササビもモモンガも、その生態解明は自然保護活動ともリンクされ、彼等の冤罪もすっかり晴れました。しかしこうして彼等の伝説をひもといてみますと、果たして「化け物時代」の彼等と「アイドル時代」の彼等は、どちらが幸せだったのか、ちょっと考えさせられてしまいました。もはや人間に警告を発する霊力を失ってしまったのですね。
以下は余談ですが十年程前に亡くなった私の義兄は少年の頃、山梨の田舎に住んでいました。兄弟が多かったためにいつも腹をすかしていて自分達で食料を調達しなければならない時も度々だったそうです。とにかく蛇でも蛙でも、口に入るものは何でも食べたらしいのですが、ある時ムササビを捕獲して鍋にしてしまったのです。しかし予想に反して泡が鍋から溢れるほどアクが強い上、食べられる部分はほとんど無かったということです。腹ペコの子供たちは、さぞガッカリしたことでしょうが…飢えた子供の食欲は化け物より強し…グリーン××スに知れたら大砲をブチ込まれそうな話ですが、もう時効でしょう。(おわり)
1号路の浄心門脇にある神変堂の前に祀ってある一対の夫婦鬼、妙童鬼と善童鬼についてです。「高尾の七福神巡り」の企画会で一部スタッフにはすでに発表したのですが、他のボラ会員にもお知らせした方が良いと考え、「かえで」に投稿することにしました。
じつは神変堂横の解説板では、向かって右が水瓶を持つ妙童鬼=前鬼(ぜんき)=女鬼、左が斧を持つ善童鬼=後鬼(ごき)=男鬼、と書かれています。
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| 神変堂の妙童鬼と善童鬼。解説板には右の妙童鬼が前鬼、左の善童鬼が後鬼と書いてある。しかしこれは間違いである。 |
この前鬼・後鬼の像は有名な大峯山寺本堂の役行者開帳仏をモデルにしていることは明らかです(下写真左)。ところがどの書物を調べてもこの役行者像の向かって右の鬼が「後鬼=妙童鬼」、左の鬼が「前鬼=善童鬼」とあります。結論を先にいいますと高尾山の解説板では前鬼・後鬼が逆になっていて間違っているとしか申しようがありません(誤記!)。大阪市立美術館にある平安時代作といわれる最古の木像でも水瓶を持っている方の鬼が「後鬼」とされています。他にもいくつか理由があります。たとえば
・斧を持ち、道を切り拓く役を受け持つ善童鬼が前にいるべき…つまり前鬼である
・善童鬼は「前童鬼」とも書き表す場合がある(知切光歳『天狗の研究』)
・善童鬼は「阿(あ)形」であり、妙童鬼は「吽(うん)形」であるから「阿」が前である
…という具合ですから、善童鬼が前鬼であることは間違いないでしょう。
しかし、ここで一つやっかいな問題があります。それは上記のごとく、この善童鬼が「阿形」であることです。一般的には仁王像、狛犬、高尾山の天狗像にいたるまで、「阿吽」として対になっている像のほとんどは「阿形」が向かって右に位置しているのです。つまり本来、阿形である善童鬼=前鬼が向かって右に位置したほうが自然であり一般的でしょう。
そこで以下は私論ですが、本来、大峯山寺の善童鬼は右にいたのではないでしょうか。つまり、前鬼・後鬼は互いに顔を見合っているのではなく、左右を見張っていた姿なのではなかったかとも考えられないことはありません(下写真中。斧が多少邪魔に感じられますが役行者をしっかり守っているようにも見えますし、三像を並べた場合コンパクトです)。なぜならこれらの像はそれぞれ独立しているので自由に位置を組み替えられるからです。ですから今でこそ善童鬼は左にいますが、このスタイルがイメージとして定着する前、右にいたという可能性が無かったとはいえません。実際に前鬼が右に固定されている像(下写真右。戸隠神社中社蔵)もありますし、有名な吉野曼陀羅図などでは前鬼・後鬼とも右にいます。つまり前鬼は左と決まっているわけではないのです。何も細かいことにこだわってケチをつけるつもりは全くありませんが、決まり事に疑問を持つ姿勢や柔軟な発想を持つことも楽しいものです…ということで、皆様はいかが思われますか?
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| 大峰山寺の役行者開帳仏。高尾山の妙童鬼・善童鬼のモデルと思われる。室町時代作。 | 左写真を加工してみました。本来、この並びだったのかも知れませんね? | 戸隠中社の役行者像。見にくいかも知れませんが、左の鬼が白い水瓶を持っていますから後鬼と思われます。 |
お馴染み、高尾山口駅から甲州街道を渡ったほぼ正面にある「大野屋」のお話。
昔から「第二のVC(注1)」と呼ばれるほどのボラ(注2)御用達店である理由は、イベントの前日に荷物を置かせてもらっていた、などの便宜を図ってくれた時期もあったらしいが、とにかく「安い」からだろう。
しかし…決して不潔という意味ではないが…山小屋的感覚を全く知らない都会育ちの女性などには、おそらく座るのもはばかるほど、店内は雑然としている。
私は入会してすぐにこの店の存在を知り、ワクワクしながら先輩に付いていった。それは四年ほど前のことだが、今でも当時と店内の状況は全く変わっていない。薬王院の天狗団扇や積みあげた雑誌などの位置、お世辞にもレトロムードとは程遠いガタピシな丸椅子とひび割れたデコラ製食堂テーブル、リュックを置く以外に使われたことのない座敷席、薄暗いトイレなどなど…。
二年ほど前のこと、ボラ会屈指の毒舌家で超人的情報収集能力を持つH氏が「おいっ、ぞえ(私のこと)。ついに大野屋のラーメンに当たりが出たらしいぞ!」。当たりの賞品とはゴキくんのことで、当選者はうちのボラ会員。しかも女性だったと記憶している。
ところがそれを聞いた皆の反応は淡々としたもので「へぇ〜、やっぱりねぇ〜」という程度。一向に足が遠のく気配はなかった。
上記のごとくで免疫のない都会人にとって、注文するには多少の勇気がいるのだが、大野屋のラーメンファンは多い。自然薯を使った「とろろそば」や「とろろめし」も結構イケるらしいが、私も都会育ちなので未体験だ。
だいぶ営業妨害みたいな話になってしまったが、じつはすごく良心的な店である。一杯のビールとサービスの漬け物や梅干し(これもかなり旨くて人気がある)だけで、どんなに居座っても嫌な顔ひとつされない。…まあ、正直言って一杯で終わることはまずありえないのだが…。
ラッキーな日には土産まで持たせてくれる。自家製や地元産と思われるトマト、クリ、ソバ粉などなど…。すっかり上機嫌で帰宅し、ふとポケットを探るとキュウリが入っている日もあった。昨年暮れには、店の裏庭で採れたという小粒の柚子を数個いただき、正月のお飾りや雑煮に使用させてもらった。
裏庭といえば、これもH氏情報だが数年前まで残飯目当てのイノシシ親子やタヌキが出没していたらしい。それほど裏庭まで山が迫っているということだ。
しかし、考えてみれば、いくらお洒落に飾り立てようが、深夜にドブネズミが徘徊するような都会の飲食店より、はるかにマシかも知れない。
そんな大野屋が「高尾山の冬そばキャンペーン」のポスターやチラシに載るようになってからの一番の変化は、いつも薄汚れた前掛けをしていた息子さん(特にせり出した腹の部分が煮しめ色になっていた)が、明るいチロリアン風のセーターを着るようになったことか…。ボラの一人が、からかい半分に質問していたが、やはりお袋さんに買ってもらったらしい。この店は地元ムードたっぷりの年輩夫婦が商売っ気ゼロで営業しているのだ。だから無断閉店の日も多い。
先日、ボラ会の連中とはぐれ、ひょっとして…と覗いてみたら予想に違わず、すでに二人ほどの仲間が始めていた。その日は我々オヤジ連中の他に親子連れや若い女性客もいたのでなんとなく店が明るい。いつも通り粛々と(?)やっていたら「おぉやっぱりいたね」と、またまた数名顔を覗かせた。
高尾には、これが目的で来るわけじゃないのだが、夕方になるとなぜか主客転倒になってしまう日が多い。(注1)VC=高尾山の山頂にあるビジターセンターのことで、高尾パークボランティア会や東京都レンジャー、サブレンジャーの活動基点となっている。
(注2)ボラ=高尾パークボランティア会の会員を自分たちでよぶときによく使う言葉。相対的に高尾ボラという時もある。会員は東京都に登録されており、東京都多摩管理センター(通称タマカン)の下に属する。
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| 京王電鉄のキャンペーンちらし。右列上から3番目が大野屋のとろろそば。中を開くとマップや店の写真も紹介されている。 |
7月号の月例定例会報告(注1)の補足を兼ね、高尾山・蛇滝の行場に祀られ龍権現について、私見を交えてご報告いたします。
蛇滝に関しては、高尾山説話集『むかしでござる・天狗さまのはなし/菊池正著/ノンブル社』によれば俊源大徳が山中において、さらに良い霊場を探していたとき、猟師に捕らわれていた白蛇を助けた。その礼にと、白蛇がこの滝に俊源を案内したという。ただ、これには3つの説が伝わっており、1前記のごとく、滝まで案内した 2絶壁をよじ登った白蛇がそのまま滝と化した 3白蛇が龍と化し、雨を呼んで滝を現出させたという。
かつては蛇滝口が高尾山へのメイン参道であったというが、実際に蛇滝が開発された時期は近年のことで万延元年(1860)、桜田門外の変が起きた年である。参拝者を見込んだ商人某が数両で薬王院から利権を得、名所にしたらしい。また、ここには青龍権現の隣に福玉稲荷が祀られているが、寄進されたものということで、縁起は一切不明である(薬王院談)。
ところで、この青龍権現(せいりゅう、しょうりゅう)とはどのような神様かというと、下図(畠山記念館蔵)のごとく、吉祥天のように美しいが恐ろしげでもある女神だ。右下に描かれている女性に比べるとずいぶん大柄に描かれているが、これは仏画によく見られる画法ゆえであろう。一般にメインの神仏は大きく描かれるものである。しかし上記の白蛇でもあるとすれば色も姿もさまざまだ。
冗談はさておき、じつは青龍権現は高尾山の四天王門をくぐった右側に立っているイケメンの婆伽羅(しゃから=沙迦羅、沙竭羅とも)竜王の八歳になる第三女…つまり成道した(神となった)竜女なのである(出典『法華経・第五巻』)。ついでながら婆伽羅竜王は竜宮の王・海神でもある。
ということは、高尾山ではこの二神を親子ぐるみで祀っていることになる。
青龍権現とは弘法大師空海が長安・青竜寺の鎮守神を、中国からの帰朝と同時に勧請した神である。つまり空海が帰国する際、船を守護しながら我が国に飛来したというわけだ。
京都では俊源大徳が出た醍醐寺に祀られているから、もともと高尾山に縁の深い神なのである。
飛来後は水神信仰と習合し、京都神泉苑で修された真言密教の祈雨法(雨乞い)における祭神ともなる。千人同心の石川日記には度々高尾での雨乞いのため、護摩法を修した記述があるが、青龍権現にも参拝したかどうかは不明だ。
ところでこの青龍権現は、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画などに描かれて石室の東西南北を護る四神(青竜または蒼竜、白虎、朱雀、玄武)の青竜とは異なる。四神とは古代中国思想における守護神獣であり、密教で信仰されている神ではない。したがって高尾山には他の神獣も祀られていない。
青龍権現は水神であるから我が国では敬意を込め、「清瀧権現」と正式表記されるが、高尾山では「青龍」である。
蛇滝の修行場は韓国や中国の信者から大変人気がある。以下は私見であるが、蛇滝人気の一因は、この「青龍」という表記が「清瀧」に比べ、彼らの文化に馴染んでいるからではないだろうか。ある韓国人のお婆さまは、毎年積み立てをして蛇滝の泊まり込み修行に参加することを非常に楽しみにしていたそうだ。今は亡くなってしまったそうで、このあたりのお話を伺えなかったことが残念である。
青龍権現は、同じく水神である厳島神社の主祭神・市杵嶋姫命(弁才天)や吉祥天とも同神または姉妹神ともいう説がある(『外法と愛法の中世/田中貴子/平凡社』)。それどころか竜神の娘ということは乙姫や豊玉姫、玉依姫などとも姉妹ということなのだ。さらに姉姫は牛頭天王の妃である。
女神とは誠に複雑怪奇な血縁を持つ神々である。しかし、これこそ日本人の信仰観の一側面であり、興味が尽きない。(注1) '06年6月4日の月例定例会。「飯縄の法とクダ狐」というテーマで、高尾ボラを対象とした講演をおこなった。会場:高尾ビジターセンター・レクチャールーム。28名参加。
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| 左下の女性に比べると異常に大きく描かれているが、これは大女ということではなく、人に比べて神を大きく描く仏画の一般的な手法だと思います。かなりの美女に描かれていますが、眉間に寄せたシワが結構怖ろしい。(畠山記念館「清滝権現影向図」) |
高尾山の穴弁天は洞窟が崩れたため、新品の一面八臂(腕が八本ある)像が入口のすぐ奥に設置されたが、深部に鎮座していたのは一面二臂のレリーフ像であった。先年の長島僧正の講演でご存知の方も多いであろうが、もとはサラスバティーという女神で、川の神である。インドでは一面四臂の像が多い。ビナーラという楽器を持つ。
ところで下左写真は大正時代の江ノ島弁才天である。よく知られた艶っぽい「裸弁天」とは大分イメージが異なるが、この像ははじめから全裸であった。しかもちゃんと股間には性器が刻んである。私はこの写真が掲載された古い本(復刻版)も持っているが、当会の品位が落ちるので、これは発表しないでおこう。ちなみに、この像は運慶作と伝承されているが、刻銘がないので真偽のほどはわからない。
覚えている先輩もおられるかも知れぬが、この弁天様は昭和25年(1950)新宿のデパートに出開帳し、「ストリップ弁天」といわれて大いに人気を博したことがあったそうだ。この時にはすでに大々的な補修によって失われていた左腕と両脚の腿部以下が再現され、今に見られる肉感的でエロチックな女神へと変身をとげた後であった。全身美容整形されてしまったのだ。
じつは江ノ島の裸弁天が有名になる少し前…つまり大正12年の関東大震災後、それまで腰布を巻いて半裸とされていた鶴ヶ岡八幡宮の弁天様が、なんと全裸だったことが寺社修理技師の解体によって確認されている。鶴ヶ岡の弁天像は鎌倉中期の権威ある楽人が音楽を司る神として鶴ヶ岡の舞楽殿に奉安したものといわれ、やはり運慶作という。つまり修復以前の江ノ島、鶴ヶ岡の両弁天様は共に鎌倉時代か、少なくともこの時代の彫法を継承した像といえる。しかもそれより前の時代となると、弁才天の存在はかなり薄い。せいぜい平安末期から登場してくる程度である。つまり、現世利益の信仰対象となったのも、この時代以降からだということだ。
それ以前のセクシー女神は吉祥天や天鈿女命などであった。古いところでは伏見稲荷の巫女や神楽における豊饒の舞を舞う巫女も淫靡な要素を持っていた。観音様では格が高すぎる。「ご開帳」と比喩されるのは厨子が観音開きだからである。しかし彼女等はいずれも全裸ではない。確かに暑い国、インドではギリシャ彫刻の影響も受けて裸像の存在は珍しくないが、日本における仏像美術は中国や朝鮮半島を通して伝わっているので、仁王や明王の半裸像を除いては原則的に着衣である。江戸の春画しかりで、日本人はあけすけな裸体を好まないのだ。ではなぜ弁天様のみが素っ裸なのか?
まず第一に考えられることは当時、遣唐使の廃止などにともない、日本独自の芸術ルネッサンスが興ったからであろう、とは『奇書』第5号(昭和27年11月発行)における原浩三氏の説である。原氏によると、当時の彫刻師が造形的な野心を持ち、写実の厳しさと女性美への憧憬をもってこれらの像を彫り上げたのだという。
次に私の考えだが、上記のように弁才天は、ある意味「新参」の女神であったゆえに、自他共に信仰的慣習や畏怖心に捕らわれることなく自由な発想で芸術的表現をしやすかったのではなかろうか。
しかし、残念なことに弁天様は江戸時代になると堕落してしまった。好色的な説話や品位に欠ける川柳などが続々と生まれ、ついには美形の娼婦にたとえられるまでになる。埼玉県無量寺の「くすぐり弁天」にいたっては、裾をまくって局所を撫でると弁天様が笑うという伝承まである。それだけ大衆的な神でもあったのだろう。
とはいえ、裸の弁天像はそれほど多くはない。じつは、この女神の正体は下右写真のごとくオドロオドロしい蛇女でもあることを忘れてはならぬ。私も妻と江ノ島に行った折には、「ヤキモチを焼かれて別れるハメになるぞ」と、一人でニンマリ拝んできたほどである。
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| 修復前の江ノ島弁財天。『奇書』第5号(昭和27年11月発行)より転載。 | 柴琳賢筆「天河秘曼陀羅」。能満院蔵/大阪市立美術館。 |
下左写真は高尾山仏舎利塔前に立つ飯縄大権現が乗る狐の尻尾である。飯縄大権現の像はさまざまあるが、狐の尻尾がこのような角度から見られるケースは希で、グーをしている後ろ足と巨大な擂粉木風の尻尾が何とも可愛らしい。蛇足ながら、擂粉木とは僧侶を罵っていう語でもあるので、このお山ではあまり口にせぬ方が良いかも知れない。
狐といえばお稲荷さんであるが、高尾山には稲荷社が4社ある。稲荷山の旭稲荷、蛇滝の福玉稲荷と蛇滝口の千代田稲荷、薬王院の福徳稲荷だが、他にも山麓や民家にも小祠がいくつかあるに違いない。薬王院の稲荷神は仏教系であるから狐に乗る女神・ダキニ天だ。飯縄権現を構成する合相神でもあるこの神の本社は愛知県豊川市・曹洞宗妙厳寺の豊川稲荷である。だから飯縄権現を稲荷権現という研究者もいるほどである。よく稲荷社に奉納されている例の小さな白狐の焼き物はズバリ、ダキニ天の化身(眷属神=お使い)という説もある。一方、神仏混淆前の稲荷神は(主に)稲束を背負った翁神で記紀に登場する食稲魂命である。この神は京都・伏見稲荷大社に祀られている。で、食稲魂命の眷属までもが狐とされたのは、もともと日本や中国には古くから狐を神聖視する下地があったからで、神仏混淆後、ダキニ天の影響を受けたのであろう。後に食稲魂命は、やはりダキニ天と同郷の神である宇賀神や、その妻ともいわれる弁才天(眷属は共に白蛇)とも同一視されるようになる。ウカとウガの音が似ているからである。シャレではなく日本人は言霊を信じていたからだ。つまり稲荷神は記紀神話系と仏教系の2つのルーツを持ち合わせた神なのだ。したがって飯縄大権現はダキニ天であり稲荷神であり宇賀神・弁才天でもある。
ところで、誰もが信じて疑わぬダキニ天や飯縄権現が乗っているこの白狐(「かえで5月号」参照)、じつはもともとは狐ではなかった! では何かというと「野干」または「射干」と音表記された動物で、アラブ語やペルシャ語で「シャガール」「シガル」「シャガーラ」、フランス語やロシア語では「シャカル」、つまりイヌ科食肉目の「ジャッカル」である。日本や中国にはいない。狼やコヨーテに似ていて狐より小さく、木登りが得意といわれる。この動物が中国では狐に当てはめられ、それがそのまま日本に伝わり「野干」=「狐の異名(または狐に似た動物)」と考えられるようになった。
インドのダキニ天はかつて尸陀林(城外の死体捨て場、刑場でもあった)に棲み、妖術のパワーを得るため生きた人の心臓や脳などを喰らい、邪悪な視線をもって子供を衰弱死させたりもする女夜叉だったから、やはり人肉をあさるといわれたジャッカルとはもともとお仲間だったのである。やがて同じく極悪夜叉だった大黒天(大日如来の権化)に降伏し、仏教の軍門に降った。その後、閻魔天の一族に組み入れられる。ここで初めて同じ閻魔一族だった野干を駆使して通力自在の神となるわけだが、生きた人肉のかわりに人の死を六ヶ月前に予知し、死ぬと同時にその人の心臓を取って喰らうことになる。つまり大日如来の命により、多少新鮮味に欠けるもので我慢することを強いられたのだ。
だから、ダキニ天が未来を予知し望みを叶えてくれる神となったのは出来る限り新鮮な人肉を喰らわんがためだった。この神の予知能力を借りるための術が密教の修法の一つである「ダキニ天法」なのだが、若き頃の平清盛、政権奪回を目指す後醍醐帝もこの法を修したといわれる。この法の変形が悪名高き「立川流」だ。飯縄権現出生の地、北信飯綱山から出たといわれる妖術「飯縄の法」も、もともとは「ダキニ天法」である。ただし「飯縄の法」では狐と多少ニュアンスの異なる「クダ狐」という霊獣を使役する。
しかし、これらは邪法として禁じられたため、やがてダキニ天は大衆のニーズに合わせ、福徳神としての性格を前面に出すに至った。そして江戸時代には武門から町人に至るまで「お稲荷さん」人気が大ブレイクし、今尚続いている。しかし、そのお使いが、じつはジャッカルだったことを知る人は現代でもあまりいないのではなかろうか。
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| 高尾山・有喜苑・仏舎利塔の前に立つ飯縄大権現像の狐のしっぽ&後脚。本来、指は下に向くはずだが、何とも言えぬ愛嬌がある。 | 「野干=ジャッカル」。この図は後頭部に角が生えた状態を示したもの。非常に頭が良く狡猾だという(南方熊楠「十二支考・虎に関する史話と伝説」『民俗』)より。 |
6月7日、長野の善光寺に参拝。ただし本堂は修復工事中である。私事で大変恐縮だが、そもそも長野に出向いたわけは、約二年前から書き始め、ほぼ完成しつつある「飯縄神とクダ狐の妖術および高尾山の神々」についての研究文を本(注1)にしてくださるという長野市在の奇特な出版社から連絡をいただいたからだ。飯縄大権現は高尾山薬王院のご本尊であるが、この神の発祥の地は長野県戸隠山系の飯綱山なので、長野からお声をかけていただいたとしても決して突飛な話ではなく、むしろ東京都高尾発信のレポートに先方の方が驚かれたかも知れない。
本題に入ろう。私は昨夏、飯縄大権現のルーツを探るため戸隠へ行ったのだが、飯綱山山頂近くにある飯縄神社本宮(こちらでは飯縄大明神)を参拝した折、そこで偶然にも麓の芋井地区の氏子さんと遭遇し、お札(下左写真)をいただいた。うかつにもその時点では気に留めなかったのだが、下山してからよくよく拝見すると「信州善光寺常圓坊鎮座」とある。ここでまた「なんで?」という疑問が湧いたが、それきりになっていた。そしてこの日ようやくその疑問を解くチャンスに恵まれたのだ。
お詣りもそこそこに私は境内の案内所で常圓坊の場所を訊ねたところ、山門を入ってすぐ右にあるという。なぜ気付かなかったのか腑に落ちないまま引き返すと表札は「常円坊」となっていたので見落としたのだった。一般に寺社周辺でいう「○○坊」とは、講を組んでお詣りにきた方達のための、寺院や神社公認の宿のことで、いわゆる宿坊である。僧侶や神職が経営している場合が多く、本堂と関連のある神仏なども鎮座している。
常圓坊の門をくぐってまず驚いたのは「八王子高尾講」が寄進した屋根つきの板碑が立っていたことだ。さすが高尾講! 私がここを探し当てるずっと前から、玄関先にしっかりと足跡を残していた。対応に出られた執事の男性は髪も普通に伸ばしており、お坊様には見えなかったが、なんとなく飯縄大権現を彷彿させる風体の方であった。高尾のボラ会で神仏・信仰の歴史を勉強している者だと挨拶すると、確かにこちらには飯縄大権現が鎮座されており、ご本尊は烏天狗の姿をした大聖不動明王ですとおっしゃる。なぜここに? との問いには、飯縄大権現は善光寺のご本尊「善光寺如来(阿弥陀如来)」を火災からお守りしているのだという。常圓坊は代々この神をお祀りする役を仰せつかってきた。で、飯縄大権現はいざという時のために、野山を素速く駆け回れる狐に乗っているのであると…。「…う〜〜ん、なるほど」と納得いたしました。
古来、日本人は災難・災害をもたらす神を祀ることによって天候や身の安泰を祈ってきた。つまり、祟る神を畏怖し御機嫌を損なわぬようにしてきたのである。自然現象・病疫の流行・天神様(菅原道真)などがその代表格で、平たく申せば「触らぬ神に祟りなし」ということである(怒ると恐ろしい山の神は我が家にも…)。
江戸時代、火災は天狗が例の羽団扇で火を弄ぶから起きると信じられていた。だから天狗である飯縄権現や秋葉権現を火伏せの神として祀ったのである。高尾の火渡祭で出されるお札のご利益も火伏せであった。
話がそれたが善光寺には、新年に当役(世話役)が飯綱山山頂本宮の飯縄大権現(大明神)と戸隠神社を参拝する「堂童子」という正月行事があるという。善光寺の仏様と飯綱・戸隠の神々との関わりは深いのだ。ところで常圓坊の例祭日は5月8日と10月8日の年二回だが、その日でも飯縄大権現は開帳しないという。ひと通りのお話も伺い、拝観できず残念ですが…とお暇の挨拶をしたところ「よろしいですよ…」と、ご本尊を拝ませてくださった。しかもお札(嬉しいことに別バージョンだ)までいただいた。ご本尊は小像であったが、このお札とほぼ同じお姿である。
なんとラッキーな日であろう…せっかくだから一泊しようかな…と仕事の状況を電話で確認したところ、翌日提出の修正が出ていた。で、好物の蕎麦を食べる暇もなく事務所へトンボ返り。
そういえばお布施を置いてこなかった…。今日はもうこの辺にしておけとの飯縄大権現の思し召しか、それとも我が家に鎮座する山の神が手招きしたのか…。
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左:山頂でいただいたお札 |
風・雪害に耐えるよう、1961年コンクリで再造営された本宮 |
No.166('05年5月号)「飯縄神を奉じ、婦人を自害に追いやった武将」
前号で触れた戦国時代の飯縄信仰とは、密教における「ダキニ天」「不動明王」「弁才天(稲荷・狐信仰)」や「天狗信仰」が習合した怨敵調伏・合戦必勝の呪法である。
信州・飯綱山で千日太夫(伊藤親子)が、主にダキニ天法(未来を予知し望みを叶えられる秘法)に武術や原初忍法の要素を加え「飯縄二十法」として大成したのであった。
しかし当時の国内におけるダキニ天は下左図のごとく弁才天をモデルにした天女姿だったので、戦の神としてはあまり相応しくない。そこで強いイメージの烏天狗と不動明王を合体させた飯縄大明神のキャラクターを起用した。そのキャンペーンが功をなしたか、実際に霊験あらたかであったのか、この飯縄大明神は戦の神として足利氏、管領細川政元、関白九条稙通、武田信玄、上杉謙信、遠くは鹿児島の島津家からも祀られるようになった。忍法の祖として伊賀・甲賀衆からも信仰されている。
この飯縄の法についての伝承は古くからあり『阿娑婆抄』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『塩尻』『霊獣雑記』『嬉遊笑覧』『稲荷神社考』などの文献に残されているが、一般には天狗の使う「外法・邪法」または狐(クダ狐)を持ち歩く術者の「妖術・魔法」と見られている。したがって戦乱の収まった江戸時代には禁じられた。
しかし当初は、この飯縄の法を修める行者は五穀を絶ち、蕎麦粉三升を持参して飯縄山西窟に籠もり二十一日間岩に座して修業したという。また、この法を成就するには女性を近づけてはならず身を清めて修行しなければならないと信じられていた。念ずる相手の本性が恐ろしい女神だったからか、不浄を極端に嫌う天狗に気を遣ったのかはわからぬが、人々から畏怖され、時には狂人扱いされるほど厳しく禁欲的な修行であったようだ。ところでここに、飯縄の法を修するためストイックに徹し、その婦人を自害にまで追い込んだ武将がいる。
その無粋な男とは東国屈指の強者、我らが八王子城主・北条氏照(1540〜90)である。北条早雲が興した後北条氏三代当主・北条氏康の次男で武蔵国・滝山城主であった。聡明で武勇に優れ、若い頃から関東各地を転戦して後北条の勢力拡大に大いに貢献している。父氏康が高尾山の飯縄大権現を戦勝の守護神として崇敬していたこともあり、氏照も戦に臨むにあたり必勝を期するため当地の飯縄大権現に祈誓し、さらに飯縄の法を修得しようとしていた。
氏照は永禄十二年(1569)、同じく飯縄神を奉じていた宿敵武田信玄の二万の大軍に滝山城を囲まれたが、かろうじて落城を免れている。津久井・三増峠の大合戦では武田軍との厳しい攻防の最中、馬上より高尾山を振り返り飯縄大権現に武運を祈ったという。その後、この強敵を迎え撃つため城を八王子に移した。高尾山の1号路・城見台からはこの堅固な山城がよく見えたことであろう。
この氏照には大石氏の夫人・比左(ひさ)がいたのだが、上記のごとく飯縄法修得の祈誓によって十年間もの間女性を禁じた。その結果、夫人は夫に対する怨慕のあまり自害してしまったのである。ヒステリーが高じて…という歴史家もいるが、それではあまりにも夫人が気の毒である。
いずれにせよ、夫人の遺書を読んだ氏照はその心を大いに憐れみ、生涯女性を近づけなかったという。当然子は無く、四代当主の兄・氏政の子を養子に迎えている。
やがて天下の実権は豊臣秀吉が握ることになるのだが、後北条一族はこれに従わず、天正十八年(1590)秀吉による小田原攻めに対しても氏照は徹底抗戦を主張した。そこで八王子城に僅かな守備兵を残し、自らは北条の本拠・小田原城に立て籠もった。しかし留守を守る八王子城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの大軍に包囲されてしまう。八王子勢は城内に避難した領民等と共に激しく抵抗し、敵方に甚大な被害を与えながらも6月23日に力尽きて落城。この悲報を聞いた氏照は床を叩いて号泣したという。
一方、小田原城も3ヶ月に及ぶ籠城虚しく7月5日に降伏。7月11日、氏照は兄氏政や数名の重臣と共に主戦派としての責を取られ切腹した。ついでながら氏照を介錯したのは弟(四男)の北条氏規(うじのり)であるが、なんと彼は伊豆韮山の城主であった。この城を包囲したのは徳川勢だが、氏規は人質だった家康と幼年時代を共に過ごした旧知の仲である。そしてこの時、韮山城の開城に尽力したのが北条方と徳川方に分かれて相対した江川英吉・英長親子で、二人は高尾で馴染み深い江川太郎左右衛門の9代・8代前にあたる。やがて江川家は地元韮山を拠点とし、武州八王子などを開墾して領地を広げるのだが、氏照と江川、韮山と高尾の縁(えにし)には深遠な歴史のロマンを感じる。
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| 高尾山の本尊「飯縄大権現」(左)と、その原型となった「ダキニ天」(右)。 | 「義列百人一首」に描かれた北条氏照。 さすがに強そうだ(『高尾駅界隈』107Pより)。 |
No.164,165('05年3,4月号)
「江川杉の謎1,2 〜高尾山に杉を植えた伊豆の代官とはどんな人物か〜」5号路・ビジターセンター下あたりに「江川杉」とよばれる杉林があることはご存知の通りである。解説には伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門(下写真)が天保年間(1830〜1843)に植林したとある。ここで「ふ〜ん」と納得するだけではボラ会員としてチトもの足りぬ。「なぜ伊豆韮山の代官がわざわざ高尾山に?」という疑問が湧き、喉に魚の骨が引っ掛かっているような感触があった。
彼の役宅(役所を兼ねた屋敷)は江戸にあったとはいえ、高尾からはるか彼方の本所(現・墨田区亀沢1丁目)である。また、一役人として植林の指揮をとったというだけでは目新しくもなく、いくら江川が大人物だったとはいえ、それだけが理由で「江川杉」と呼ばれていたのでは面白くも何ともない。ここには何か深いワケが潜んでいるに違いないとにらんだ。それを解明するには、まず彼の人物像を知っておく必要がある。江川太郎左衛門英龍は号を江川坦庵(たんなんとも)といい、江戸末期に大活躍した「時代の先覚者」である。世襲代官・江川家の三十六代目として有能であったばかりでなく、学者であり兵法者でもあった。海防、教育、外交など多方面に渡って活躍した非凡な大人物である。彼の担当地域・伊豆の韮山には江川が塾長を務める「韮山塾(江川塾)」があり、門弟は4千名を越えていたという。江川の主な功績をあげると
1 独学で「耐火煉瓦」を開発し、韮山に日本初の「大規模反射炉(銑鉄鋳造が可能な溶鉱炉)」を建造。数多くの新式大砲や鉄砲を生産する。この工業技術と建築技術は海外でも高く評価されている。
2 ペリー来航(1853)の16年も前(1837年 *大塩平八郎の乱勃発…後出)から海防の必要性を説き、『伊豆国防御策』を幕府に提出していた。結果的に黒船騒動が起こってから、幕府はやっと江川の実力に気付き、慌てて彼を勘定吟味役として取り立てる。そこで江川はさっそく「三浦半島、房総半島、本牧、羽田、品川沖に砲台を建設せよ」とブチまけるが、もはや幕府にはそのような大規模土木事業を施工する財力は残っておらず、わずかに品川沖に砲台を作るのみに終わった。これが今に残る「お台場」である。
3 当時、国内では唯一佐賀藩だけが採用していた「種痘」を自分の担当地域、伊豆(八丈、三宅島まで含む)において実施している。彼はこれを普及させるため、まず自分の子供たちに施して見せたという。
4 「パン祖」と呼ばれるほど早くからパンを製造していた。これはパンの携帯性や保存性に注目した江川が、戦場での非常食としての価値を認めていたからである。ただしあまり旨くなかったらしい。
5 1849年、下田湾を無断で測量していたイギリス軍艦を追い出す際に、訓練され正装した農兵を率い、自らを人口15万都市のガバナー(知事=イギリスでは非常に尊敬される地位)と称し…普段は質素倹約を通していた江川だが…この時は金銀で飾り立てた刀と越後屋呉服店(現三越)であつらえた超高級錦を纏ってイギリス人艦長を平伏させた。その実績を買われてか、1854年、ペリー二度目の来航の折には「外交交渉」を任されている。
6 同じく1854年、駿河湾沖で沈没したロシア軍艦の乗組員を祖国へ送り帰すため、ロシア人と日本の船大工や鍛冶職人の共同作業による洋式帆船建造を指揮。西伊豆の戸田で100トンあまりの「ヘダ号」を建造、無事ロシア人たちを祖国に帰している。洋式の造船技術を学んだ船大工たちはその後、この地で6隻の洋式帆船を造っている。江川は洋式帆船を造った翌年の安政2年(1855)、わずが55歳(恥ずかしながら私と同年)で亡くなっている。幕府から「勘定奉行(大蔵大臣)」兼「外国奉行(外務大臣)」として就任せよとの内命がくだった直後のことであった。インフルエンザの高熱を押して韮山から江戸に出たのが原因である。最後まで「今から登城する」「馬の用意をせよ」などとうわごとをくり返したという。
ほかにも江川太郎左衛門の功績は数多くあるのだが、書ききれないのでこのくらいにしておく。
ところで、このように超多忙な人生を送った江川が、いつの間に高尾山くんだりまでやってきたのだろうか。さらに調べてみると意外なことが判明してきたのである。(次号に続く)
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| 江川太郎左衛門。「伝説と奇談 第10集/山田書院」より転写。この超高級錦を纏ってイギリス人艦長を平伏させたのであろう。 |
「江川杉」が植林されたのは天保年間(1830〜43)とされている。この時代は諸外国の船が日本各地の沿岸に出没して物騒な時代であった。国内では五年間にも及ぶ深刻な大飢饉が続き、一揆や打ち壊しが全国規模で勃発している。武士以外の庶民に多くの餓死者が出た中、天保8年(1837)大阪町奉行所の熱血与力「大塩平八郎」が反乱を起こした。この火種は関東にまで飛び、武蔵や相模などで「平八郎の残党が蜂起するらしい」という噂が立った。
そしてなんとこの時、我らが江川太郎左衛門(1801〜55/左上:自画像)は斉藤弥九郎という人物と共に平八郎残党の情報収集と大飢饉で壊滅寸前の幕府直轄領調査を兼ね、甲斐・武蔵・相模三国を隠密裏に巡察・探索していたという。
落合一平氏の『高尾山話(かえで94号)』によると「当時八王子辺は韮山代官の支配下にあった」とあるので、この飛び領地の視察も目的の一つだったに違いない。いずれにせよ江川が韮山代官に就任して早々の任務であったが、その後の彼の約20年間に渉る超多忙人生を考えれば、このワンチャンスに高尾山に立ち寄った可能性が非常に高い。
しかし、新米代官にのしかかる飢饉・反乱・外敵など、問題山積みの緊迫状況を考えれば隠密裏の巡察が悠長な旅であったはずもなく、食料にも事欠くこの時期に、わざわざ高尾山の山頂付近に政治的判断で杉の植林をしたとは考えられない。賢い江川には、あまりにも相応しくない行為である。
…で、ここは、江川個人レベルでの植林…それも薬王院への寄進だったのではなかったかと私は考えている。
その理由は、江川が剣法「神道無念流」の使い手だったからである(一般に江川は砲術の方で名高い)。なぜならば、驚くなかれ、この「神道無念流」は福井兵右衛門嘉平という剣術家が天明年間(1781〜88)に「飯縄大明神」から伝授された剣法とされているのだ。そして江川は己の剣法の流祖「飯縄大明神(寺院においては大権現)」を崇めていたに違いない。江川の数々の功績を振り返れば、彼の超人的エネルギーが「国家守護の兵法探求心」に源を発していたことに気付くはずだ。兵器を生産する「溶鉱炉」、戦闘食の「パン」、対外敵用「砲台」。…これらと同じステージに「武術としての剣法」があったのではないだろうか。前号に掲載した江川の写真を思い出していただきたい。えらく凄みのある刀を持っているではないか…。江川の本質は武士なのである。これでやっと「江川太郎左衛門」と「樹齢160年以上という高尾山の江川杉」がドラマチックに繋がった!
そもそも飯縄大明神とは室町戦国時代に武門に崇拝された戦の神であった。1233年、飯綱山に籠もり飯縄大明神を捻出した(感得した)人物は飯綱山南麓に城を構えていた武将、伊藤忠縄・盛縄親子(千日太夫)といわれている。その後、上杉謙信、武田信玄などの名将が篤く信仰するに至った。薬王院においては1376年、密教僧の俊源大徳が護摩を焚いて飯縄大権現を呼び込んだ(勧請した)とされるが、その約200年後に北条氏の信仰を大いに得たことや、武田氏の家臣(信玄の妹「松姫」とも信玄の妾ともいわれる)がこの地に飯縄大明神を祀ったこととも深く係わっているはずだ。武田の流れを汲む千人同心の存在も無視できぬ。つまり、それほどに飯縄大明神は武門に奉じられた神だったから、武術の祖と祀られても何の不思議はなかったわけだ。他にも飯綱山からは忍法や馬術をはじめ、いくつかの武術流派が出ている。「天狗」や「狐使いの妖術」まで出た。
この「神道無念流」を修した福井嘉平は、剣の奥義を究めるため諸国を巡歴し、最後に飯綱山に五十日間籠もった。このとき嘉平の前に老翁が現れ剣の奥義を伝授したのだという。この老翁こそが飯縄大明神で、神道無念流はここから名付けられ、この神を流祖としたのである。嘉平は1789年に没したが、愛弟子の戸賀崎熊太郎(1744〜1809)がこの剣法を継いだ。この熊太郎が江戸に「戸賀崎道場」を開き、以後戸賀崎の名は五代続く。この流派は指導者にも恵まれ、剣のみならず知的にも人格的にも優れた人材を多く輩出した。
その中の一人が江川太郎左衛門というわけだが、年齢的に初代熊太郎の直弟子だった可能性は薄い。
ついでながら神道無念流は幕末にも栄え、画家の渡辺崋山、水戸藩士・藤田東湖、武田耕雲斎、長州藩士・高杉晋作(柳生新陰流でも有名)、若干21歳で神道無念流免許皆伝を受けた桂小五郎(木戸孝允)、新撰組の永倉新八、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助ら、敵味方とり混ぜた錚々たる人物が名を連ねている。昨年夏、飯綱山山頂近くの飯縄奥社を訪れた際、社殿の隅にひっそりと置かれた絵馬(下写真右:平成11年7月奉納)を発見した。それは今なお精進錬磨を重ねながら「神道無念流」を継承する剣士達の飯縄神への誓文であった。武門の神…凛々しい飯縄大明神の一面を垣間見た思いがして、この時はさすがに胸が昂った。(完)
追記:まさか高尾VC(ビジターセンター)に韮山土産「江川のパン」があったとは…ごちそうさまでした。予想通りの固さと噂通りの味でした。これも飯縄大権現と江川杉のお導きに違いない。(VCのスタッフ紅さんのお土産。さすがに皆さん勉強家だ)
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| 自画像。画にも非凡な人で多くの作品を残している。 | 平成11年、飯綱山頂本宮に奉納された神道無念流武芸者の誓文。 |
No.163(2月号)「高尾山のオタヌキ様とライオンに乗った菩薩」
琵琶滝不動堂横の羽目板に、ライオン(獅子)に乗った菩薩様が彫られている。これは騎獅文殊菩薩像である。
例の「三人寄れば…」といわれるほどの智慧(般若)を象徴する神様である。象に乗る普賢菩薩と共にお釈迦様の脇侍とされている。しかも実在の人だったらしい。
そんなにエライ菩薩様がなぜ(格下の)不動明王堂の脇に…という話はオイオイするとして、もっと奇妙なことには、この文珠菩薩の脇にひっそりと狸が祀られているのである。
小さいながらもコンクリート製のしっかりした祠なので、どう見ても洒落や冗談ではなさそうだ。
川口謙二氏の『日本の神様読み解き事典』によると、どうやらこれは「狸神」らしい。ほとんど同じにしか見えないが、飲み屋の脇に立っているノンベエ狸とはワケが違うのである。どうもここの狸神は浅草・浅草寺伝法院裏の「大使者鎮護堂」にも鎮座しているという神様と同神らしい。私がそう確信する根拠は、隣に文珠菩薩がいるからである。
で、文珠菩薩の話に戻るが、密教・真言宗における文珠菩薩はダキニ天法の観念法においては、ダキニ天の変化とされている。つまり文珠菩薩はダキニ天なのである。
このダキニ天とは高尾山のご本尊、合体神である飯縄大権現を構成する主要な女神である。なんといっても飯縄大権現の乗っている狐はダキニ天の狐(白狐、野干)なのである。
過去におけるダキニは鬼子母神の一族とされ、人肉を喰らう女夜叉だったのであるが、豊川稲荷のご本尊という一面も持っている。また、邪教・淫教といわれて弾圧された「真言立川流」の髑髏本尊もこのダキニ天である。長くなるのでこの話は次の機会に譲るが、それと狸が何の関係があるかというと…じつは浅草寺伝法院裏・大使者鎮護堂の祭神はなんと、このダキニ天だというのである。
これで琵琶滝不動に狸神の祠がある理由がわかった。つまり、文殊菩薩はダキニ天に変化し、そのダキニ天は狐だけではなく狸も眷属にしていたのである。…ということで、こんなスクープは今のところ本文を読んだ当ボラ会会員しか知るまい。ところで狐や蛇と同様に、狸も人に憑くらしい。
伝法院裏・大使者鎮護堂の由来は以下の通りである。
明治の初め頃、戊辰戦争の影響で上野の山を追われ、住処を失ったオタヌキ様が浅草寺の用人の娘に憑いた。奇言奇行が激しく、夜泣き蕎麦を二十杯も食べたりしたという。ある夜、オタヌキ様が異なる寺の二人の僧正の夢に同時に現れ「我に住処を与えれば火伏せの神となろう」といったのでこのオタヌキ様に「鎮護大使者」の称号を与えて祀ったのだという。
この神様は、火伏せ、商売繁盛、盗難除けに御利益があるそうだが、その名(チンゴ)から近くの遊郭・吉原や玉の井の遊女たちからの信仰も多かったという。狸神には蕎麦を供えていたそうだが最近は赤飯、酒、煮しめが多いらしい。確かに蕎麦は持ち運ぶにも不便だし供えにくい。現代は、お供えをするにも烏の害や衛生面を考慮しなければならぬ。カップ麺の「緑のたぬき」ならイケルかも…。
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| 琵琶滝不動堂に向かって右にある羽目板の文珠菩薩。ちなみに左には普賢菩薩がある。 | 文珠菩薩の右奥に鎮座するお狸さま。ちゃんと祠の中に鎮座している。 |