『かえで(高尾パークボランティア会報)』掲載小論集
「弁天様はなぜ脱いだのか」
No.177('06年4月号)

*この拙論は大幅に加筆して拙書『八百万のカミサマがついている!』に発表しています。

 高尾山の穴弁天は洞窟が崩れたため、新品の一面八臂(腕が八本ある)像が入口のすぐ奥に設置されたが、深部に鎮座していたのは一面二臂のレリーフ像であった。先年の長島僧正(当時、薬王院僧侶)の講演でご存知の方も多いであろうが、もとはサラスバティーという女神で、川の神である。インドでは一面四臂の像もあり、ビナーラという楽器を持つ。

修復前の江ノ島弁財天。『奇書』第5号(昭和27年11月発行)より転載。

 ところでこの写真は大正時代の江ノ島弁才天である。よく知られた艶っぽい「裸弁天」とは大分イメージが異なるが、この像ははじめから全裸であった。しかもちゃんと股間には性器が刻んである。私はこの部分の写真が掲載された古い本(復刻版)も持っているが、当会の品位が落ちるので、これは発表しないでおこう。ちなみに、この像は運慶作と口伝されているが、刻銘がないので真偽のほどはわからない。


 覚えている方もおられるかも知れぬが、この弁天様は昭和25年(1950)新宿のデパートに出開帳し、「ストリップ弁天」といわれて大いに人気を博したことがあったそうだ。この時にはすでに大々的な補修によって失われていた左腕と両脚の腿部以下が再現され、今に見られる肉感的でエロチックな女神へと変身をとげた後であった。全身美容整形されてしまったのだ。

 じつは江ノ島の裸弁天が有名になる少し前…つまり大正12年の関東大震災後、それまで腰布を巻いて半裸とされていた鶴ヶ岡八幡宮の弁天様(左下写真)が、なんと全裸だったことが寺社修理技師の解体によって確認されている。
鶴ヶ岡の弁天像は鎌倉中期の権威ある楽人が音楽を司る神として鶴ヶ岡の舞楽殿に奉安したものといわれ、やはり運慶作という。
  つまり修復以前の江ノ島、鶴ヶ岡の両弁天様は共に鎌倉時代か、少なくともこの時代の彫法を継承した像といえる。しかもそれより前の時代となると、弁才天の存在はかなり薄い。せいぜい平安末期から登場してくる程度である。つまり、現世利益の信仰対象となったのも、この時代以降からだということだ。

鶴岡八幡宮の弁才天も全裸だという

 それ以前のセクシー女神は吉祥天や天鈿女命(あめのうずめのみこと)などであった。中世には伏見稲荷の巫女や神楽における豊饒の舞を舞う巫女も淫靡な要素を持っていた。
  観音様では格が高すぎる。「ご開帳」と比喩されるのは厨子が観音開きだからである。しかし彼女等はいずれも全裸ではない。確かに暑い国、インドではギリシャ彫刻の影響も受けて裸像の存在は珍しくないが、日本における仏像美術は中国や朝鮮半島を通して伝わっているので、仁王や明王の半裸像を除いては原則的に着衣である。江戸の春画しかりで、日本人はあけすけな裸体を好まないのだ。

 ではなぜ弁天様のみが素っ裸なのか? 

 まず第一に考えられることは当時、遣唐使の廃止などにともない、日本独自の芸術ルネッサンスが興ったからであろう、とは『奇書』第5号(昭和27年11月発行)における原浩三氏の説である。原氏によると、当時の彫刻師が造形的な野心を持ち、写実の厳しさと女性美への憧憬をもってこれらの像を彫り上げたのだという。
 これに私の考えを付け加えさせていただくと、上記のように弁才天は、ある意味「新参」の女神であったゆえに、自他共に信仰的慣習や畏怖心に捕らわれることなく自由な発想で芸術的表現をしやすかったのではなかろうか。

 しかし、残念なことに弁天様は江戸時代になると堕落してしまった。好色的な説話や品位に欠ける川柳などが続々と生まれ、ついには美形の娼婦にたとえられるまでになる。
  埼玉県無量寺の「くすぐり弁天」にいたっては、裾をまくって局所を撫でると弁天様が笑うという伝承まである。それだけ大衆的な神でもあったのだろう。
  私も妻と江ノ島に行った折には、「ヤキモチを焼かれて別れるハメになるから」と、一人でニンマリ拝んできたほどである。

 とはいえ、裸の弁天像はそれほど多くはない。じつは、この女神の正体は下写真のごとくオドロオドロしい蛇女でもあることを忘れてはならぬ。

柴琳賢筆「天河秘曼陀羅」。能満院蔵/大阪市立美術館。

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